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君に綴る物語 12 独りごちる
最近 よく 独り言を言う。
台所で。
トイレで もよおすのをまつ瞬間に、
ふと 昔の苦い記憶がよみがえった時、
場所は違えど、発する独り言は いつも 一緒だ。 声にならない奇声に似た濁音混じりの嘆き。 或いは 叫びににた 人物の名前、又は 謝罪 の言葉。
なんなのであろうか。
自分自身に対する嘆きなのか、それとも 歯が痛いことに関連した イライラ感がたまっていることに よるものなのか?
それとも おそらく ただのそういう人物なのか?
いや 分かっている。 実はわかっています。
とても簡単なことで、 やはり自分が行ってきた過去にたいして、取り返しはつかないにしても なぜ あの時に あのような 軽率で未熟な行動をとってしまったのか? 今の自身はとてもあの頃の君自身が抱いていた理想の人間像と余りにもかけ離れてはいないか? 青臭い心でも、可能な限り誇り高くありたいと、時に神経症てきにまで感じすぎていた 君をみかけたのは いつごろの事だろうか? 30代前半の君は、なにもなくして ひとり 本当のひとりというものを、時として皆がそうであるように、家族或いは近い存在の人から、人は 最悪の教訓を身をもって教えられるのだと気づき、それでも 前だけをみつめ、前向きなメッセージを、全てを飲み込みながら、カラッカラでも出し続けたね。 人には 第六感のようなものが有り そのメッセージが相手にどれだけ伝わっていないと感じていながらも、精一杯の気持ちと 覚悟で、命 カラガラのメッセージをだしつずけていたよね。 結果 僕は傷つき倒れた。 それでも 僕は 立ち直る きっかけにすらそのことをもちいなかった。
よく 「見返してやろうと思い頑張りました。」って いう話をきたけど、あの時の僕は それだけは しない。 そう 固く心に誓っていた。
だから 少し時間はかかった. 立ち直る きっかけを上手くは見いだせなかっつた。むしろ 自然にまかせた。
人のことを、考えながら それをエネルギーにかえて 頑張るほど、僕は或いは強くはなかったのかもしれないし、まだ あるいは その時までは 僕の心の大部分を理想の人間像なるものが 占めていたのだと思う。
君に綴る物語 11 母について想うときに君を想うこと
母が大病をしてもう六年目をむかえている。思い返せばよくここまでどうにか命をつないでいるものです。さすがにもうダメかもっと考えることも数度あり、その度に驚異的な回復力で復活する母。 母が病で倒れてからの時間が、考えれば君が我が家族を献身的にサポートしてくれた歴史でもあります。
最近ようやくではあるが母のことを考えるようになりました。きっかけの一つがアメリカのニュースで 「認知症の人々にその方が好きな音楽を聴かせると、当時の記憶がよみがえり 楽しそうに思い出話をしている。」 映像をみて、母の好きな音楽ってなんだろう? って思うと愕然としました。
何にも知らないのです。母の事を。 よく考えたら単純に母が一人の女性であることさえ正しく考えたことがありませんでした。 余りにも何も知らない自分。 少しでも 知ろうと努力する君の姿。
何もかも今までは母にまかせ、今度は君に全てを任せようとしているような自分。決してそんなつもりではないものの、結果的には あるいは客観的にはそうでしかない時間がいままで続いてきている。
そんな母の事を少しでも知ろうと考えて今年から始めているのが、「母のお気に入りのラジオ番組を聞き、ハガキを投稿して少しでも読まれて、その読まれたハガキの話を母がしてくれれば嬉しいなっ。」作戦を決行している。
母のことを想い ラジオを聴く。
そして感じたことを ハガキを通じてかく。
時々 読まれる。
もしかしたら その話に母が興味を持ち話すかもしれない。
なんか遠まわしな表現だが、こんな事ができてとてもうれしい。
君の存在があるからこそ、このような機会に恵まれた。とても有難いことです。有難いことを得られる機会に感謝しながら 君を想う。
そして母を想い、時に涙がこぼれそうになる。 しかしこぼせない。 そう 涙をこぼす程のことを僕はまだ行っていない。
何ができ、何をするべきなのであろうか。 母を想うときに 同時に君も想う。
君に綴る物語 10 大検 単位制通信高校
震災当時僕は23歳で、高校へ行っていた。 僕は十代の頃 今からは想像もつかないくらいに 熱にあふれていた。 正直 高校に何もみいだせなかった。 普通誰しもが感じるような疑問に、真っ直ぐに向かい そのくせ解決策など当然もちあわせづに、結果的には家を飛び出しそれから二十歳を迎えるまでは、色んなことをしていた。 それはそうと その頃の僕は、ずーと心に引っかかる問題を解決するべく、22歳より単位制通信制高校へ通っていた。 今考えると この頃にはもうすでに、歯を失っていた。家出をしたままの少年がひとり3年も過ごすと、色んなものを失う。それが僕には歯であり、普通の高校生活であった。
当時の僕ら高校中退者が、改めて高校卒業の権利を得ようとしたら、夜間の定時制高校へ通う「4年間。今までの高校中退の単位は反映されない。」か、大学入学資格検定 そう大検というやつ。こちらは年に1度だけテストがあり、一発勝負で落ちると来年。 そう難しくないが、普段のテスト範囲が教科書一年分でそれで60%取れれば合格。そういう感じだった。僕も大検は一度受けた。その試験の帰り道で、チラシをもらう。それがその当時はじめてできた単位制通信制高校の入学案内だった。
どこが今までの高校と違うのか? 最大のポイントは、中退した高校での単位、そして通学していた年次を引き継げることだ。 これは画期的だと感じた。 僕は2年生の二学期に中退したので、新しい単位制通信制高校では、一年半の在籍でその間に残りの単位を取れば卒業させてくれるとのことだった。 その時僕は22歳だった。同じ年の子は大学卒業して就職を考えている時期だ。 でも面白いって 思った。
皆が大学卒業するときに 自分は高校へ再入学する。面白い。実に自分らしい。
そもそも高校を中退し、家出を数年し、多感な若者が世の中の裏側を目の当たりにしないと生活はできず、くだらない劣等感にさいなまれている少年が素直に自分の非を認めるような行為 高校へもう一度行くと言うこと。そう素直になるにはやはり目的ができた事が大きかった。
君に綴る物語 9 阪神淡路大震災 今思いかえすと
阪神淡路大震災の数日前までに、今思い返すと 印象的な家族内でのことがまだある。一つは 前日に父がお伊勢参りに行って帰ってきて 僕にはお守りを、母には御札をもとめてきてくれた。 母の御札は 何気なく高い場所がいいだろうと思い、僕が母の部屋のタンスの上に置いた。 そして僕のお守りは、もらって胸のポケットに入れたまま忘れていた。 震災後一週間は、傾いた家で母と過ごしていた。お風呂に入ることもなく、枕元に靴を脱いで寝るような状況だった。 余震が続き 数日立つと 震度を当てられるくらいになっていた。 一週間後 母が 「やっぱり知人の所に少しの間だけお世話になる。」っと言ったので。 先の知人宅へ車で向かった。 梅田の喧騒がまるで別世界のように感じ、何か不思議な感覚にとらわれた。 知人宅では、まづお風呂に入れさせていただいた。その脱衣所で服を脱ぐ時に、胸のポケットの存在に気づき、「あーお守りだ」っとつぶやいた。 ちなみにウチでは ありとあらゆる物が倒れ、飛んできたが、不思議と母の部屋だけは何も倒れなかった。
お守りのお陰などと言い張るつもりはない。
ただ そういう事があったことを、思い返す。
もう一つ似たようなことがあった。
普段から 大体父の布団を敷くのは僕の係だった。 割と几帳面な僕は、毎日必ず枕元の電気スタンドの場所を確認してそこの合わせるように布団を敷いた。ただその日だけは 後にも先にもこんな横着なことはないのだが、父がその日も酔って帰り 又めづらしく不機嫌なことも重なり、押入れから布団を出して 置いた そのポジションを移動しないで そのまま布団を敷いた。 スタンドからは大分遠く「なんか悪いなー。」っと感じた。 次の日 明るくなり父の部屋を見たときの光景は憶えている。 スタンドの上に2メートル位の仏壇が倒れ、布団の周りに 父を避けるようにスピーカーとか花瓶が散乱していた。
この二つは印象的な出来事でした。 それでも不思議と最近忘れてきていることも多いと思う。 この逆説的な二つの出来事が僕の周りではほとんど同時期に起こっていたんです。
君に綴る物語 8 阪神淡路大震災 被災者について思うこと。
僕が阪神淡路大震災をとうして漠然と感じた事を書きます。被災地をその後歩いて感じたことは、震度6弱と震度6強にはすごい違いがあるなーっと思った。「もちろん6弱の地域でも大変な経験をした方々もたくさんいるのです。」震度6強と思われる地域をまわると、言葉にならないため息のような、息をのむような気持ち。我が家も50cmほど傾き、あらゆるものが倒れ、飛んでき、天井も落ちてきたが、西宮の街々をはじめて訪れたときの光景と気持ちは忘れられない。 そして長田区に代表されるように、震災の伴い火災が起こったりしたような場合も、これは全然違うのではないかとおもう。被災者ではあるが、ほんとに色々で被災者と一括りには出来ないし、してはいけないし、又 我々二次災害を受けていない震災経験者からしても、二次災害を受けている方々の心情は察するにあまりあり、20年の時が経ったいまもどう伝えればよいのかかんがえます。
僕もしばらく知り合いの家で避難させていただき「数ヶ月」 その後天満の父の会社の新入社員の寮の空き部屋に住居が決まり、そこからはじめて西宮市のボランティアセンターに登録し、様々な方々にお会いし、改めて被災地をまわった。
今 40代の自分をかえりみて、当時感じ、当時思った、大人になっているのかと問うてみる。真っ直ぐに 目を見つめ 曇りなく 熱い何かを語れるだろうか。 ややふし目がちに、遠い目をしてゴニャゴニャ言ってるそんな自分を感じることが最近ある。とても残念なことに。
もう一度、いや何度でも 振り返り、自身に問い直し あの頃感じた未来の自分へ今からでも 少しづつでも近づく。そう固く誓う。生あるかぎり 前進したい。後悔を一つでもへらしたい。せっかく君と過ごせる幸運な時を生きているのだから。出来ることを一つ一つ丁寧にこころがけます。